ジョン万次郎について

ジョン万次郎の人生

1827年(文政10年)、土佐国幡多郡中の浜(現在の高知県土佐清水市中の浜)に貧しい漁民の次男として誕生する。 9歳で父を亡くし、奉公に行くなどして母を助けて一家を支えていた。

1841年(天保12年)、万次郎が14歳の時仲間4人と共に宇佐浦より小船で出魚したが嵐に遭遇し、 黒潮に流され漂流して一週間後無人島(鳥島)に漂着。アホウドリ(現在は天然記念物)が群棲しており、 この鳥や貝、海草などを食べて生き延びた。
約6ヵ月後アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号のホイットフィールド船長に救助され、 ハワイに到着。ホイットフィールド船長に見込まれたジョン万は、仲間4人と別れて1年5ヶ月間、 捕鯨船で南太平洋の航海を続け、キリバス、グアム、鳥島からハワイをかすめモーレア島(タヒチ)からグアム再訪して南氷洋へ。

1843年(天保14年)、ケープホーンを通過してアメリカのニューベッドフォードに着く。 マサチューセッツ州フェアヘブン、そしてスコンチカットネックに船長夫婦と共に生活しながら、 バートレット・アカデミー校などで英語や高等数学そして測量術や航海術など3年間勉強する。

1846年(弘化4年)、再び捕鯨船フランクリン号で出航、ボストンに寄港して大西洋を横断。 アゾレス諸島のファイアル島(又はピコ島)、サンチャゴ島に寄港して、喜望峰を回る。 インド洋のアムステルダム島でジョン万はナイフを口にくわえて海に飛び込み大亀を捕獲する。

1847年、 インド洋で正月、インドネシアのチモール島、ニューアイルランド、ソロモン諸島グアム島、 小笠原諸島の父島、琉球(マンビコシン)、鳥島、仙台沖と回り、ハワイに入港。 ここで漂流仲間に会うが、4人のうちの1人重助が既に死亡していた。
ハワイを出港して1848年にグアム寄港。船長が狂乱でマニラに寄港し本国送還を依頼した後、 ジョン万が一等航海士、副船長として出港、台湾、日本近海、ハワイホノルルに再入港する。

1849年(嘉永2年)、 ソロモン、セラム島、チモールのクパン港、モーリシャス島、レユニオン島、マダガスカルの南の海上から、 喜望峰、セントヘレナ島をへて大西洋横断して9月23日ニューベッドフォードに帰港。
同年11月、カリフォルニアで金鉱が発見され、ゴールドラッシュに沸いているサクラメントで、 日本に帰る旅費を稼ぐ為にニューベッドフォードを出港する。木材運搬船で働きながら6ヶ月後サンフランシスコ着、 サクラメント、シェラネバダ山脈のノヲフレバ金山に着く。

1850年 9月、約4ヶ月間で600ドルを稼ぎハワイへ、12月仲間の伝蔵・五右衛門の3人でサラボイド号に乗り出港する。 日本に上陸するためのボート「アドベンチャー号」に土産のものを積み込んだが、その中には辞書やワシントン伝記をはじめ多くの書籍があった。 のちにこのボートが日本人の手で初めて作られた西洋式ボートの雛形となり、持ち帰った本などが日本の夜明け前の指針となった。

1851年(嘉永4年)2月2日、琉球本島沖に到着し、摩文仁(現在の糸満市大渡浜海岸)に上陸する。 8月27日に薩摩藩の取調べ、そして10月23日長崎での幕府の取調べを受ける。

1852年6月、土佐に帰るため土佐藩からの迎えと長崎を出発して8月25日高知城下に到着。 再び取調べと、絵師・河田小龍の漂流から帰国までの聞き取りが始まり「漂巽紀畧」が完成する。 11月16日、生まれ故郷の中の浜に帰着。3日間滞在後に土佐藩新規定小者に召抱えられ、高知城下教授館出任する。 万次郎は、その知識や英語力を買われ、土佐藩や幕府に招聘されて航海術や英語の指導、書物の翻訳や通訳等にあたる。

1853年(嘉永5年)7月8日、ペリーが浦賀に来航、そのために万次郎は江戸に呼び出される。 深川の江川太郎左衛門邸内に住まい、幕府直参となり、中濱の姓を名乗る。団野鉄と結婚、洋式船建造、軍艦教授所の教授に任命される。

1855年、「ボーディッチの航海書」の翻訳完成する。

1859年、「英米対話捷径」完成。

1860年(万延元年)2月10日、咸臨丸遣米使節団教授方通弁主務として浦賀出港する。 嵐の中を事実上の船長として操船し3月18日サンフランシスコ到着、6週間滞在の後帰途ホノルルに寄港して6月23日浦賀帰着。

1861年(文久元年)小笠原諸島の開発調査に咸臨丸で行く。

1864年(元治元年)薩摩開成所教授として赴任、英語・航海・測量・造船など教授する。

1866年(慶応2年)後藤象二郎と帆船購入の為に長崎から上海へ2度往復する。

1869年(明治2年)明治新政府より東大前身の開成学校教授に任命される。

1870年 (明治3年)普仏戦争視察団の林有造らの通訳として横浜出港。 サンフランシスコから大陸横断鉄道でバッファロー、ナイアガラ、ニューヨークへ、途中ニューヨークに立ち寄った際、 万次郎はフォアヘブンに恩人ホイットフィールド船長を訪ね、20年ぶりに再会を果たしている。
ロンドンに於いてリューマチが悪化し1人帰国する。

1879年 (明治12年)母しお病死す(86歳)。

1886年(明治19年)ホイットフィールド船長没(82歳)。

1888年(明治21年)万次郎物語「土佐半紙初荷艦」歌舞伎上演される。万次郎観劇する。

1898年(明治31年)11月12日万次郎脳溢血にて死亡する。享年71歳。

幕末太平洋を漂流する、土佐の名も無き一漁民。アメリカの捕鯨船が彼をすくったとき、冒険が始まった。
アメリカで学びつつ、捕鯨船の乗組員として7つの海をめぐり、10年間の異国生活を過ごした万次郎。
彼が帰国したとき、日本国内は開国と攘夷に揺れる幕末動乱期であった。


アメリカを知り「ジョン・マン」と呼ばれた男を待っていたものとは。
ジョン万次郎の数奇な生涯、そして地球7周の堂々たる人生であった。

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